日本肩関節学会の黎明日本肩関節学会の黎明

肩関節学会40年史

日本肩関節学会の黎明

肩関節研究会の創設

信原病院・バイオメカニクス研究所
信原克哉

1.はじめに
 整形外科教室に入局したとき、ある先輩が私を図書庫に誘い一冊の本を読むよう勧めてくれた。それはBatemanの名著「The Shoulder and Environs」(図1)で、私の肩への関心はここでより強くなったことを覚えている。彼の名は戸祭喜八先生、1959年のことである。
 当時、どこにも肩の指導者はなく、私達は先駆者たちの著書・論文から学び、我流で治療を行っていた。Batemanの本のほかDe Palmaの「Shoulder Surgery」、Moseleyの「Shoulder Lesions」などが日々の実践の糧であった。関節包弛緩と関節唇損傷は13世紀、Rogerによってすでに発見され、現在はBankart Lesionとして知られていること、肩関節の前壁を補強して脱臼を防止する方法は、1925年頃に英国のPlattと伊国のPuttiによって考案されていたこと、腱板の断裂は1788年、Monroによって発見され、1911年にCodmanの手によって手術的に修復されたこと、などの歴史を知って深い感動を受けたものである。Codmanの輝かしい業績は彼の著書「The Shoulder」に集約され、肩関節外科のバイブル、現代肩関節外科の定礎となっている(図2)。


  • 図1)Batemanの
    「The Shoulder and Environs」

  • 図2)Codmanの「The Shoulder」

2.医学会での肩の地位
 医学全域からみると当時は肩への関心はほとんど払われていなかったようである。それは他領域の研究や治療の進歩に比して、明らかに遅れをとっていた。この事実は、1962年に行われた英国のGoldingの「肩―忘れられた関節forgotten joint」という講演に象徴されている。
 日本整形外科学会でも「肩」は、どちらかと云えばなおざりにされていた。学会誌を紐解くとわずかに1946年、三木威勇治教授が「所謂五十肩」について宿題報告をしたことで愁眉を開いたにすぎない。その後、「五十肩」(1961、三木)、「Rotator Cuff の損傷」(1969、筆者)が研修会のテーマになったが、脊椎、股・膝に比して依然としてマイナーな領域であった。それでも、肩関節研究会の誕生を機に「肩」への関心が増し、「肩腱板損傷」(1977、高岸直人)、「肩関節の運動分析」(1979、筆者)、「反復脱の病態と治療」(1983、山本龍二)、「腱板損傷の診断と治療」(1986、福田宏明)などが取り上げられている。当時、ある権威者が “日本に腱板断裂はほとんどない”と言った言葉が、今なお耳元に残響している。

3.日本肩関節研究会の誕生
 1970年、神戸大の異種骨移植、Kobe boneの研究プロジェクトが閉ざされた。
 そこに居る意義を失った私は大学を離れ、「夕焼け子やけの赤とんぼ」で知られる田舎町に自分の砦、整形外科病院を築いた。幸いなことにその頃、私には肩について夢を語り合い議論を戦わす仲間がいた。その意図は、制約がある学会で話せないような経験を語り、腹蔵なく話し合うことにあった。話題は尽きなかったが、最終的に安達長夫(広島大助教授)は肩関節周囲炎の病因を、私は腱板断裂の病態と手術所見を、遠藤寿男(鳴門病院部長)は従来の教科書に記載のなかったゆるい肩の疫学調査結果を、時の経つのを忘れて論じあったものである。この会は「肩寄せ合う会」と名づけられ、季節ごとに信原病院で開催されていた(図3、4)。


  • 図3)肩寄せ合う会の仲間たち。
    右から遠藤、安達、筆者

  • 図4)肩寄せ合う会の仲間たち。
    右から、手前が小川、福田、三笠。

 回を重ねるうちに近畿から尾崎二郎、関東から山本龍二、三笠元彦、福田宏明、小川清久、東北から田畑四郎、九州から伊藤信之の諸君が参加するようになり、その輪は次第に広がっていった(図5)。当時、世界中の新しい知見を記した論文を仲間に配布し、それを話題にしながら研鑽したことを覚えている。前夜の宴会での和やかな雰囲気は、翌日の勉強会では一変して殺気だった議論をするのが常で、それぞれが自説を主張して屈する気配はなかった。それは現在の肩関節学会の紳士的な討議からは、想像もできない(図6)。


  • 図5)肩寄せ合う会の仲間たち。
    右から、三笠、田畑、伊藤(円内)。

  • 図6)肩寄せ合う会の仲間たち。
    右から、独演する三笠、腕を組む山本とそれを無視する福田。

 自然発生的なこの「肩寄せあう会」が、肩関節研究会にまで発展する経緯は、会長の高岸直人教授が1974年の西日本整形災学外科学会での肩のシンポジアムを企画し、前記の三名を演者として招聘したことがきっかけとなっている。講演後の控室で私達はできるだけ早く、「肩関節研究会」を立ち上げることを話し合った(図7、8)。
 1974年10月18日、世界に先駆けて日本肩関節研究会が、徳島でその産声をあげた。仲間たちは第44回中部日本整形災学外科学会の番外編として、夕方6時からの開催を決めたのである。世話人は遠藤寿男、演題数は11編と少なかったが参加者は87名におよび、会場は熱気に包まれた。門戸は医師だけでなく肩を愛するすべての人々に開かれ、往時のプログラム(表1)をみると理学療法士の報告もある。41年前のことである。


  • 図7)西日本整形災害外科学会、肩シンポジアムの様子。

  • 図8)講演後の控室での会議。上はシンポジアム参加者。

表1)第1回肩関節研究会プログラム

日 時:昭和49年10月18日(金) 午後6時
会 場:徳島県郷土文化会館5階第8会議室

1 五十肩の背景 福岡 実
2 肩関節周囲炎の理学療法 武富由雄
3 老人屍にみられる肩関節の変化 鶴見寛冶
4 三角筋短縮による肩拘縮 富重 守ほか
5 肩関節の末梢神経障害 井上義夫ほか
6 局所麻酔による脱臼整復   福田宏明
7 肩関節内に嵌入した大結節  久津間智充
8 肩峰下滑液包造影 三笠元彦
9 話題未着 安達長夫
10 肩再建の一方法  信原克哉
11 広範囲腱板断裂の手術法  髙岸直人

 研究会の発足に関して、陰で尽力した一人の青年医師について触れておこう。当時、徳島大から研修にきていた彼は福岡での話を聞き、“帰ったら全力で会の誕生に尽くしたい”と云い、実際に徳島での会場設営から演題募集などの作業に貢献した。“水を飲むとき、井戸を掘った人のことを忘れてはならない”という中国の故事があるが、本会の現在をみて感謝にたえない。彼の名は土井君、愛媛に帰ったとの噂は聞いたが、その後の消息は途絶えている。

4.日本肩関節研究会のその後
 勢いを得た「肩寄せあう会」の仲間たちは、翌年、1975年に山口で開催される第45回中部整災会の前日に、第2回の研究会を開催することにした(表2)。世話人は小田清彦。その頃はかなり周知されていたので、演題数は15、参加者200人という盛況ぶりであった。

表2)第2回肩関節研究会プログラム

日 時:昭和50年10月29日(水) 午後3時-5時45分
会 場:山口市医師会山口健康管理センター講堂

1 腋下侵入路による頸肋切除の1経験 山陰労災病院 那須吉郎ほか
2 肘屈筋麻痺に対する血管神経柄付広背筋移行の追試 徳島大 野島元夫ほか
3 僧帽筋の神経原性萎縮による右肩外転障害の1例 京都大 上羽康夫ほか
4 当教室における肩関節人工骨頭の症例について 慈恵医大 竹村 真ほか
5 肩関節回旋拘縮の問題点 神戸市中央病院 井上紀彦ほか
6 五十肩の関節造影所見について 広島大 奥平信義ほか
7 所謂五十肩の関節の遊びの消失―新しい考え- 大阪回生病院 戸祭喜八
8 肩関節周囲炎について  信原病院  信原克哉ほか
9 腱板損傷に対する手術経験 東急病院 山本龍二ほか
10 有痛性肩疾患に対するcryotherapy 九州労災病院 鳥巣岳彦ほか
11 肩impingementに対するanterior acromioplastyの経験 信州大 久津間智充ほか
12 陳旧性肩関節脱臼の経験 鳴門病院 堀口泰稔ほか
13 高度の円背者の肩関節脱臼  鳴門病院 堀口泰稔ほか
14 随意性肩関節脱臼手術例の検討 東海大   福田宏明ほか
15 随意性肩関節脱臼の治療経験 東京大 加藤文雄ほか

 この年、高岸氏が国際肩学会(ICSS)から学会長に指名され、そこで1976年の第3回研究会はそれと併施されることになった。関係者が総力を挙げた福岡での国際学会は充実した内容で大成功を収めた。一方、研究会のほうも演題35、参加者186人と好調であった。
 研究会を全国的な組織にするため、高岸氏は「肩寄せあう会」の三名に加えて、全国各大学教授の中から幹事を選出し(表3)、二十名で構成された幹事会は、ただちに会則、内規、申し合わせなどの基本事項を策定した。このとき、彼が国際肩学会に“第1回日本肩関節研究会を同時に開催する”と報告していたことが問題となったが、土屋弘吉教授の「福岡での研究会は第3回とする、このときから会長制をとる」という裁定で無事に決着した。この経緯は1977年発刊の雑誌「肩関節第1巻第1号」に、一文として掲載されている。

表3)日本肩関節研究会(第3回当時)幹事一覧

安達長夫(広大助教授) 上羽康夫(京大助教授) 遠藤寿男(鳴門病院部長)
河路 渡(杏林大教授) 鈴木良平(長崎大教授) 高岸直人(福岡大教授)
田島達也(新潟大教授) 土屋弘吉(横市大教授) 津山直一(東大教授)
信原克哉(信原病院長) 服部 奨(山口大教授) 福田宏明(東海大助教授)
藤本憲司(信州大教授) 星 秀逸(岩手医大教授) 松崎昭夫(福岡大助教授)
松野誠夫(北大教授) 宮崎淳弘(鹿大教授)  山本龍二(昭和大教授)
若松英吉(東北大教授)    

 福岡以降、旧「肩寄せ合う会」のメンバーは研究会の担当を予期していたが、定年前の理事たちの要望や、開催地の分散などの因子が加わって待機を余儀なくされていた。そこで、安達、遠藤、山本、福田、三笠、小川、筆者ら7名それぞれが資料を用意して、アメリカ各地での見学・講演旅行をすることにした。中西部の旅程は私が、東部のそれは福田が準備した(図9、10、11、12、13、14、15、16、17)。


  • 図9)空港での侍四人。
    右から、小川、筆者、安達、遠藤。

  • 図10)Mayo Clinicでの講演。

  • 図11)Campbell Clinicでの記念写真。

  • 図12)Calandruccio教授との懇親会。

  • 図13)Michael Reese Hospitalでの記念写真。Melvin Post教授と。

  • 図14)Columbia Presbyterian Hospitalでの記念写真。

  • 図15)手術後、Neer教授と、筆者、福田

  • 図16)Pennsylvania Univ. 前での記念写真。

  • 図17)お疲れの遠藤、元気な三笠。

 「アメリカ切り込隊」と称されたこのグループは、SeattleからRochesterのMayo Clinic、MemphisのCampbell Clinic、ChicagoのMichael Reese Hospital、 PhiladelphiaのSports Center、Boston、New YorkのColumbia Presbyterian Hospitalなどで講演を強行、往時の米国専門家のCalandruccio、Post、Neer教授らと親交を結ぶことができた。その後、私が第6回、安達が第8回、山本が第9回、福田が第11回、それに遅れて小川が第26回の研究会を担当した。

5.日本肩関節学会の発展
 発足当時の研究会は、症例報告や治療内容、手術手技などを議論していたが、増え続ける会員数と演題数に対処するため、開催日の延長と複数の会場設定を余儀なくされた。研究会は1991年に日本肩関節学会と改称され、主題が決められポスター展示が募集されるようになってゆく。
 研究会の活動のおかげで、全国的に肩への研鑽を志す青年医師、アジアからの留学医師などが増える傾向となった。例をとると、当院で過ごした仲間達は全国各地で肩専門医として重宝され、とくに後者の数は115名を超えその多くはアジア各国の重鎮として活躍している(図18、19、20、21、22、23、24、25)。


  • 図18)肩の仲間たち。
    右から黄(当時信原病院で研修中、現肩関節センター長)、高岸、筆者、稲用、小林、筒井。

  • 図19)肩の仲間たち。
    右から尾崎、田畑、三笠。

  • 図20)肩の仲間たち。長崎での記念写真。
    前列:右から筆者、黄、黒田、池田。
    後列:右から稲用、玉井、小林
    上江津、尾崎、広岡、米田、黒川。

  • 図21)肩の仲間たち。
    信原病院で同じ釜の飯を食った米田、黒田、黒川。

  • 図22)肩の仲間たち。
    筒井、丸山、小川。

  • 図23)肩の仲間たち。
    前列:右から山本夫人、山本、筆者、黄、三森岐栄。
    後列:右から高岸、蒒(当時信原病院で研修中、現北京医院骨科部長)
    小川、筒井、橋本、山崎、熊谷、三森甲宇(円内)。

  • 図24)肩の仲間たち。
    感激で絶唱する中川。

  • 図25)注ぎに来ぬ後輩に、独酌する大先輩松野教授

 研究会が肩関節学会となって、身近な肩関節周囲炎、反復性脱臼、神経麻痺性疾患、外傷などの疾患群は古典化し、基礎的研究、腱板断裂の治療、不安定肩の病態と治療などの演題が主流となった。そして、スポーツ外傷、鏡視下手技、画像診断など、欧米でのトピックスがそれに取って代わりつつある。
 2014年、本会は一般社団法人に改組し、「日本から世界へ」とglobalizationをテーマに掲げている。国際交流の中で当会が大きく飛躍したことは事実である。しかしその中で、日本が世界に発信した業績は決して少なくはない。学術誌「肩関節」を紐解くと、英文で報告されなかったため諸外国に周知されなかった「動揺性肩関節Loose Shoulder」の概念、それに対する大胸筋移行や臼蓋骨切りという手術手技、Clinical Orthopedicsに掲載されたが関心を惹かなかった「腱板疎部損傷 Rotator Interval Lesion」がHarrymanの研究でにわかに脚光を浴びたこと、「外傷性脱臼に対する外旋位固定法」、「画像による腱板断裂の分類法」、「バイオメカニクスによるスポーツ動作の解析」など、珠玉のような業績が多くある。「自尊自重」の信念をもって会員が雄飛されることを期待するものである。

(文中 敬称略)