日本肩関節学会としての国際交流
日本肩関節学会名誉会員
小川清久
日本肩関節学会と国際社会との付き合いは、個々人の交流は別にして、1978年に始まったと考えてよいでしょう。この年、日本肩関節学会(当時は研究会)からの正式の派遣ではありませんが、強烈な個性と持ち前の馬力で学会の創立と発展を担ってきた40歳代の5名(安達長夫、遠藤寿男、信原克哉、福田宏明、山本龍二)と鞄持ちの30歳代の2名(三笠元彦、小川清久)が米国の主だった6施設を訪れ、研究と臨床の実情を視ながら、講演を行ないました(図1〜3)。この間、日本独自の研究成果に自信を得た一方、臨床面の量的劣勢を強烈に印象付けられました。この海外遠征でお世話になった米国肩関節医の諸先生の多くが、その後の日本肩関節学会の招待講演者となっておられます(‘79 Dr. Cofield、Dr. Calandruccio、‘84 Dr. Neer、’87 Dr. Post )。
学会組織としての国際的活動は1983年の第2回ICSSからでした。このICSSの場で、日本肩関節学会が世界最初の肩関節専門学会であることが国際的に認知され、第3回ICSSを日本に招致することに成功しました。1989年には第4回ICSS (New York)と第1回Scandinavian-Japanese Shoulder Congressが開催され、これを契機に国際間の交流が活発化しました。この為1991年に日本肩関節学会の国際交流の窓口として常設の国際委員会が設けられました。さらに1992年のJSES創刊の窓口として非正規ですが日本編集委員会が組織され、水野耕作が編集長になりました(表1)。
ICSS (International Conference on Surgery of the Shoulder)
(第5回まではConference、第6回からはCongress)
ICSSは1980年にLipmann Kessel (1914-1986)と Ian BayleyによりLondon大学の後援を得てLondonで創立・開催されました(図4)。出席者は主にヨーロッパと北米からの70余名で、日本からの出席者居ませんでした(図5)。この会では、現代肩関節外科の創始者と讃えられるErnest Amory Codman (1869-1940)を記念し、現在のCodman Lectureの嚆矢とも言える講演が”Codman- His influence on the development of shoulder surgery”と題してCarter R. Rowe (1906-2001) によってなされました。この会議の出席者、faculty members中Carter R. RoweとAnthony F. DePalma (1904-2005) は、直接Codmanの声貌に接しています(図6)。KesselとBayleyは、この会の成果を”We tried to gather together ‘everybody who was anybody’ in the world of shoulder surgery, and to a considerable extent we were successful beyond our most optimistic dream” と述べています。そのproceedingは日本でも販売され、格好の研究資料となると同時に肩関節専門の国際学会の存在を我々に知らしめる役割を果たしました(図7)。
第2回は、1983年にJames E. Bateman会長の下カナダのTorontoで開催されました。本会には17カ国から約200名、日本からも約30人が参加しました(図8)。日本からの演題は、65題中13題でした。Codman Lecture はLipmann Kesselによって”The interface between medicine and surgery”と題してなされました。特筆すべきは、この会に先立ち第1回ICSSの TresurerであったIan Bayleyから、英国を訪れた故伊藤信之(元長崎大学助教授、1945-1999)を通して日本肩関節研究会に第3回ICSSの日本開催に関し打診がありました(図9)。結局、日本(故髙岸直人福岡大教授を会長予定者として)と米国(故Robert L. Samilsonカリフォルニア大教授を会長予定者として)が開催に立候補し、第3回は日本、第4回は米国開催と決定しました(図10)。
第3回は1986年髙岸直人会長(1921-2010)、山本龍二副会長、福田宏明事務局長(1935-2008)、松崎昭夫会計責任者の下、日本肩関節研究会が主催し、第13回日本肩関節研究会とのcombined meetingとして福岡で開催されました(図11、12)。23カ国から約400名が参加し、演題90題中39題が本邦からでした(日本から多くの演題がポスターとして採択)。この会でICSSにデビューし、世界の権威達の研究内容と堂々とした講演に感銘を受け、発奮した若手日本人研究者が多くおりました(図13)。この意味で、以後の本邦の肩関節研究の発展に大きく寄与した学会と言えましょう。Codman Lectureは James E. Batemanによって” The place of fascia lata in shoulder reconstruction”の表題で行なわれました。この会期中、次回米国開催時の会長予定者であったRobert L. Samilsonカリフォルニア大教授(1923-1984)が鬼籍に入ったことより、会長がCharles S. Neer, IIコロンビア大教授(1917-2011)、開催地もSan FranciscoからNew Yorkに変更され、さらに第5回をParisで開催することが決定しました。この会より主催者によって非公式にnational delegatesが任命されるようになりました。
第4回は1989年に、Neer会長の強力な指導力によって多くの国々から多数の参加者が参集しました(図14、15)。135演題中18題が日本からの発表でした。会場は格式はあるが古いホテル(Waldorf-Astoria)で、演壇上で質問者の声が良く聞こえないこと、米国の若手研究者が質問より自説を滔々と早口で述べるなど、日本と欧州からの演者は質疑応答にかなり苦戦しました。Codman Lectureは髙岸直人が”The frozen shoulder in Japan. Shoulder evaluation in Japan”と題して行ないました。この会で次々回の開催国がFinlandに決定しました。この会でも主催者によって非公式にnational delegatesが任命され、後の組織化への布石となりました。
第5回は1992年フランスのParisで、会長予定者であったDidier Patte (1933-1989)の死去に伴いDaniel Goutallier教授を会長として開催されました(図16、17)。この会でDr. Neerの提唱でICSSの組織化が計られ、会の名称もInternational Congress on Surgery of the Shoulderに変更されました。長期計画を立てるThe International Board of Shoulder Surgery (IBSS)が組織され、Dr. Neerがchairman、福田宏明(1935-2008)がtreasurerに就任しました。
第6回は1995年フィンランドのHelsinkiとスウェーデンのStockholmで、Martti VastamakiとRichard Wallenstenを各々会長として開催されました(図18、19)。この会から正式に地域毎にinternational delegateを決定することになりました。
第7回は1998年オーストラリアのSydneyでDavid SonnabendとDesmond J.Bokor共同会長の下開催されました(図20)。福田宏明がCodman Lectureとして”Partial thickness rotator cuff tears-a modern view on Codman’s classic”を講演しました。IBSSのChairmanがRobert H. Cofieldに代わりました(図21、22)。
第8回は2001年南アフリカのCape TownでDonald B. Mackenzie会長の下、49カ国から700名を越す参加者を得て開催されました(図23、24)。Codman Lectureは Michel F. Monsatが”The challenge of shoulder arthroplasty-End results and new perspectives”と題して行ないました。この会からinternational delegate の地域毎の人数が決定され、international delegatesに拠るIBSSのdirectorsの選挙が始まりました。
第9回は2004年米国Washington DCでRobert H. Cofield 会長(1943-)のもと587名の参加を得て開催されました(図25、26)。従来から肘関節関連演題が漸増傾向にありましたが、この会から肘関節を正式な包含分野としました。このため会の名称もInternational Congress of Shoulder and Elbow Surgery (ICSES), board名もIBSESと変わり、ICSET(therapistのための会議)が併設されました。IBSESの ChairmanがStephen Copeland (1946-2015)、Treasurerが井樋栄二になりました。Codman LectureはDavid Sonnabendが ”The origin of the shoulder: A fairytale based on fact”と題して行ないました。2003年この会に先立ち当時の会長・IBSSのChairman であったRobert H. Cofieldから、近い将来の日本開催に対する勧誘を受けました。これを受け、日本肩関節学会は、井樋栄二・髙岸憲二を会長予定者として2013年の開催を目指す方針を決定し、立候補の意思を示すためinternational delegate meetingでpresentationを行ないました。日本のpresentation内容は素晴らしく、既に国際的には内定していた2010年英国開催を覆すことは出来ませんでしたが、2013年日本開催を事実上決定付けました(図27)。
第10回は2007年ブラジルのLaBahiaでSergio Checchia、Osvandre Lech共同会長の下、1104人の参加者を得て開催されました(図28)。この会では、病気療養のため欠席された福田宏明の永年にわたる会への貢献を顕彰し主会場がAuditorium HIROAKI FUKUDAと命名されました。Codman LectureはLouis Biglianiによって”The subacromial space: The shoulder’s unique anatomy. Past, present, and future”と題して行なわれました。この会で2013年日本開催が正式に決定されました(図29)。
第11回は2010年英国のEdinburghで、共同会長であったIan Kelly (1948-2004) の死去によってAngus Wallaceを単独会長として開催されました(図30)。Codman Lectureが Herbert Reschによって Proximal Humeral Fractures: Current Controversies と題して行なわれました。IBSESのchairmanに Louis Biglianiが着任しました。
第12回は2013年に日本で井樋栄二、髙岸憲二共同会長、筒井廣明事務局長、玉井和哉会計責任者の下に、48カ国から参加者1150名を集めて名古屋で開催されました(図31、32)。Codman Lectureは、Robert H. Cofieldにより “The unending result”と題して行なわれました。本会は、日本肩関節学会の信原克哉、水野耕作、高木克公名誉会員をはじめとする誘致委員会、準備委員会、実行委員会諸氏の長期に渉る全面的サポートが開催を可能にしたと言えましょう(図33)。本会開催の意義と評価は、第3回ICSSと同様に、わが国の肩関節研究の発展と、特に若い会員の研究を促進する契機となるか否かで問われることになります。
ICSS (ICSES)とIBSS (IBSES)で活躍した邦人を経時的に見ると、初期は髙岸直人、中期は福田宏明、後期は井樋栄二となります(図34)。この方々の活躍を可能にしたのは、その時々の日本肩関節学会員の諸先生の学問的業績と地道な活動であることは言うまでもありません。
JSES
1989年の第4回ICSS (New York)で、ASES (当時の会長はMelvin Post, 1928-2002)の賛同の下にDr. Neerの強力な牽引力によって、全世界の肩の知識の交流を促進する目的で肩・肘関節外科専門の雑誌創刊が企画されました(図35)。準備の第一段階として、1990年にFounding Board of Trustee (Neer, Bigliani, Post, Matsen, Rockwood, Cofield) が発足し、ついで1991年評議会Board of Trustee (Neer, Bigliani, Post, Matsen, Rockwood, Cofield、Sneppen, Mizuno; 米国以外の評議員は水野耕作、Otto Sneppen) が成立し、議長chairman of board of trusteesにDr. Neerが就任しました。同年 International Editorial Boardが16名(日本からは水野耕作1名)で構成され、編集長Editor-in-Chiefには Dr. Robert H. Cofieldが就任しました(図36)。評議員と編集長が月1回の電話会議を行い、原稿の受領数、査読方法などの詳細を詰め、1992年に創刊に漕ぎ着けました。日本は、構成する6地域(北米、欧州、ブラジル、オーストラリア、南アフリカ、日本;当時肩肘専門学会はJSSとASESだけでした)の一つとして、独立した論文審査権が認められました。1991年、創刊の企画時から第18回日本肩関節学会会長として交渉に当たった水野耕作が、初代の日本編集者Editorとして就任しました。編集員Associate Editorは本学会の第一世代(福田宏明、桜井実、信原克也、山本龍二、加藤文雄、竹下満、松崎昭男;1995年松崎は柴田陽三と交代)が務めましたが、正規の学会内委員会としての発足は見送られました(図37)。本来地域毎に査読を終了した論文は、International Editorial Boardで再審査される原則でしたが、1993年当時の編集長 (Editor-in Chief) Dr. Robert H. CofieldがBoard of Trusteeへ提言し、本邦からの論文に関しては無審査で受け入れられることになりました(図38)。当時熱心に査読頂いた会員諸氏の努力の賜物と水野は回顧している(水野自身は、その貢献により1996、2000年にBoard of Trusteeから表彰されている)。
1994年評議会議長がOtto Sneppenに(図39)、さらに1997年評議会議長がDr. Robert Cofield (米国以外の評議員は水野耕作、Norbert Gschwend)、編集長がRobert J. Neviaserに代わりました(図40)。本邦に於いては1999年新たに正規の学会内委員会として発足し、編集員が大幅に若返り(水野耕作、髙岸憲二、小川清久、福田公孝、中川照彦。後に玉井和哉、荻野利彦が加わる)、翌2000年に評議員・編集長も髙岸憲二に代わった(米国以外の評議員は髙岸憲二、Michel F. Mansat)(図41)。
2005年評議会議長がLuis U. Biglianiに、さらに2007年Bernard F Morrey、2010年Joseph P. Iannottiに代わった。2009年に編集長がBill Mallonに交代すると共に、編集・査読方針が大きく変わりました。それまで各地域に任されていた査読権や査読者の選択権が地域から無くなり、編集長(Editor-in-Chief)・評議会が選定した編集員中心の査読に変わりました(図42)。2013年にEvan Flatowが評議会議長に代わるとともに、日本からの評議員は井樋栄二になりました。現在、associate editorに井樋栄二、髙岸憲二、assistant editorに5名が名を連ねています。
創刊から現在までの間、様々な編集方針、査読方法、出版頻度、電子出版の併用などの変革により、論文の質が改善しました。この結果、1999年に0.67であったIFが、2014年には2.289にまで上昇しました。一方で、最近では地域に関わらず米国留学経験者を中心とした編集員構成や米国中心の編集方針により、肌理の細かいまた独創的な欧州的・日本的な論文は影を潜め、米国的な割り切った論文が増えました。
本誌の20年間の歴史の中で、活躍した邦人は前半が水野耕作、後半が髙岸憲二です。
Scandinavian-Japanese Shoulder Congress
1986年福岡での第3回ICSS、翌1987年の第14回日本肩関節研究会(三笠元彦会長)にフィンランドからMartti Vastamäki、Pekka Paavolainenが出席し、日本との濃密な交流が始まりました。これを契機に、Martti Vastamäki の熱心な招請により、1989年第1回がHelsinkiでMartti Vastamäki会長の下に開催されました(図43)。この会では日本から多くの参加者を招聘するため、日本語の同時通訳が用意されましたが、日本人の第2演者のときに全く通訳できなくなり、いつの間にか通訳者がブースから退席してしまうアクシデントがありましたものの、終始友好的な雰囲気で会は恙無く終了しました。
1991年第2回が大磯で福田宏明会長の下で開催されました(図44、45)。手作りの学会運営を目標に、当時の日本肩関節学会の若手幹事が自発的に資料の袋詰め・自動車の運転手など裏方を勤めました。
1993年第3回がOtto Sneppenを会長としてAarhusで開催されました。事務局長を務めたJ.O. Söjbjerg (1952-2013) には、この会に限らず以後大変お世話になりました(図46、47)。
1995年第4回が日本肩関節学会に引き続き山本龍二会長の下に、奈良で開催されました。アジア各国からの参加もあり、国際色が豊な学会となりました(図48)。
1998年Icelandで第5回を開催する予定でしたが、同国が未曾有の経済破綻に見舞われ、中止となりました(図49)。
1999年第6回が尾崎二郎会長の下にInternational Symposium & Practical Course on Shoulder Surgeryと併設し京都で開催されました(図50)。
他の国際的肩学会が充実してきたこと、狭い地域間交流の意義が薄れたことにより、この第6回を最後に本学会は短い生命を終わらせることとなりました。しかし、北欧での開催時には余り訪れる機会が無い地域であったこともあり、学会前或いは学会後に出身母体に関係なく旅行団を組み日本からの参加者相互の親交も深めました(図51〜53)。また出席者の平均年齢が若く、各組織から1-2名の参加であったことから、一団となって街の散策や食事に繰り出し、楽しい思い出となりました。学術的には本会で国際学会にデビューした肩関節学会員も多く、本格的な国際学会への前座的な役割を担った会でした。
SECEC
1987年にDidier Patte (1933-1989)とNorbert Gschwend (1925-)によって創設されました(図54)。現在36カ国800人の会員を擁していますが、その内我が国の会員は4名です。
1992年SECECでは米国・ヨーロッパ間の交換留学を開始しましたが、これに遅れること2年の1994年日欧間の留学制度が発足しました。この発足に当たっては1993年第3回Scandinavian-Japanese Shoulder Congressおよび第7回SECECの会長を務めたデンマークのOtto Sneppenの尽力と当時の伊藤信之会長と福田宏明の交渉力によるところが大でありました。発足から3年間は3Mから毎年5,000ドルの資金援助が提供されたが、それ以降はSECECと日本肩関節学会の手持ち資金で運営されています。当初留学生は各年1名でしたが(図55、56)、2004年から2名に増員されました(図57、58)。さらに2012年からはアジア・ヨーロッパ交換留学と形態を変えたため、本邦からの留学生は再び1名となっています(図59)。これまでのSECECとの交換留学経験者が現在の日本肩関節学会の中核を形成しており、交換留学が国際的活躍の足掛かりとなっています。 2012年の25周年記念誌には、日本肩関節学会はSECECの姉妹学会として当時の中川照彦会長が祝辞を寄せ、緊密な関係にある事を示しています(図60)。
ASES (American Shoulder and Elbow Surgeons)
1982年にNeerを会長として創立され、第1回(設立)会合がNew York (Plaza Hotel)で開催されました(図61)。参集したFoundersと共に、最初の、また唯一のcorresponding memberとして福田宏明が参加しています。1985年からは従来のclosed meetingに加えopen meetingが毎年開催されています。Closed meetingを構成する会員数は現在420名で、招待を基本とするcorresponding memberの内日本人は5名です。学会同士としての付き合いは意外に遅く、2014年からの交換留学で始まりました(図62)。