アジア肩関節学会の創立とその後
日本肩関節学会
代議員 筒井廣明
日本肩関節学会が創立された1974年から遅れること19年、1993年にアジア肩関節学会は誕生した。(図1)
- 図1)アジア肩関節学会のマーク
この時期に創立されたのはなぜか。1980年にICSS (International Congress of Shoulder Surgery)が、1982年にASES (American Shoulder and Elbow Surgeons)、1987年にSECEC (European Society for Shoulder and Elbow Surgery)が創立され、世界があるいは大陸が肩関節を討論する場を提供し始め、アジアにもそのような場が望まれたことも創立の契機になっていると思われる(表1)
- 表1)Shoulder Surgery related to Japan
世界の中で日本肩関節研究会が最も早く創設されたことはご存知の通りであるが、その数年前、肩に興味を持つ人たちの集まりである『肩寄せ合う会』での議論の面白さが日本肩関節研究会創立の流れを作ったといっても過言ではない。当時、アジア諸国の整形外科医にとっては、日本における『肩寄せ合う会』のような仲間が近くにいるわけでもなく、自分たちの肩関節に関する疑問を解くアイデアを得るには、アメリカやヨーロッパの肩関節の学会に参加し、英語の本を読むことしか方法がなかったようである。このような肩関節外科に興味を持っているアジア地域の整形外科医に、経済的な問題や言葉の壁を越えて、肩を勉強する道を信原克哉先生が開いたのが、1970年。
1970年に受け入れを開始した信原病院の交換留学生は、その後40年で100名を超え、アジア9か国、アジア以外9か国に及ぶ。(表2)
- 表2)信原病院における42年間の留学生の一覧表
アジアの整形外科の学術集会において、肩関節に関するテーマを取り上げてもらったのは、1979年、シンガポールで行われた第1回ASEAN整形外科学会(会長、O R.Boon)での肩の講演会、1988年、Kai-Ming Chan が香港整形外科学会に用意したPost Congress of International Shoulder Meeting などに留まると、信原克哉先生が著書「肩 その機能と臨床」のなかで述べられている。
1992年、WPOA(the Western Pacific Orthopaedic Association西太平洋整形外科学会)がインドネシアでProf. Chehab Rukni Hilmy会長のもと開催された際、「Symposium Shoulder Day」を2日目のプログラムに入れていただいた。(資料1)このSymposiumがアジア肩関節学会の発足の契機になるのだが、このSymposiumはなぜ、プログラムに入れられたのだろうか?
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資料1)The 13th Annual Meeting of WPOA, Jakarta, Indonesia 1992, 11, 5
※画像クリックでPDFファイル参照
信原克哉先生から伺った話では、1965年、JakartaのCentral Military Hospitalを信原克哉先生が訪問したことがきっかけのようである。信原克哉先生のジャカルタ行きに神戸大学の初代教授である柏木大治先生と廣畑和志先生(後に第2代教授)が同行された。(図2)その際、インドネシアから交換留学の申し出を受け、1970年に最初の留学生としてDr. Misban Suhartoが信原病院に研修に来られている。1975年に再度ジャカルタを訪問し、Dr. Misban Suhartoと再会を果たした。(図3)その時にProf. Chehab Rukni Hilmyと知り合うことがきっかけとなったようである。(図4)その後、親交を深め、Prof. Chehab Rukni HilmyがWPOAを開催するに際し、信原克哉先生が相談を受け、かねてからの2人の願いであった、肩関節外科のシンポジウムがプログラムに掲載され、小生にも声をかけていただき、山本龍二先生とともに参加させていただいた。(図5)
- 図2)1965年、インドネシアからの留学生受け入れのきっかけとなったジャカルタ訪問。右から廣畑和志先生(当時、助教授)、スヨート大佐(後に軍医総監に昇進)、柏木大治教授、信原克哉先生
- 図3)1975年、スカラン氏とジャカルタで再会。右からスカラン中央陸軍病院事務長、スハルト少佐(最初の留学者)、信原克哉先生。
- 図4)1975年、C.R,Hilmy夫妻と信原克哉先生
- 図5)信原克哉先生と山本龍二先生が奥さん達の前で腕比べ
シンポジウム終了後、参加した各国の肩関節外科医が会合を持ち、翌年の日本肩関節学会に於いてアジア肩関節学会創立の委員会を開催することが約束された。(図6)
翌1993年に、第20回日本肩関節学会が伊藤信之会長の下、長崎で開催されることになるが、その前に伊藤信之先生と信原克哉先生が手紙をやり取りしている。(資料2)
伊藤信之会長には、2日目に「Asian Now」というセッションを組んでいただきフィリピン、中国、香港、オーストラリア、マレーシアから6人の演者が講演を行った。(表3)
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資料2)伊藤信之先生と信原克哉先生の手紙のやりとり
※画像クリックでPDFファイル参照 -
資料3)
※画像クリックでPDFファイル参照
- 表3)「Asian Now」セッション
- 図6)ジャカルタでのアジア肩関節学会創設に向けての会合
学会終了後、学会に参加したオーストラリア、中国、香港、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、フィリピン、シンガポール、台湾、タイの11地区19名(表5)が長崎に於いて発足の委員会を開催し、信原克哉先生を会長とするアジア肩関節学会が正式に発足した。(図7)
Founding Board Membersの中からは、発展途上であったアジア各国に肩関節外科を広めてもらいたいという意見が出され、学術集会を日本以外の地域で行うことでその地域の整形外科医に肩関節外科への興味を持ってもらうことが大切であろうとの意見でまとまり、第1回の本学術集会は、台湾のJiunn-Jer Wuを会長として、翌、1994年に台北で開催することした。(図8)
また、日本は日本肩関節研究会を1974年に創立しており、組織的にも資金的にも力のある日本がサポートするべきとの日本のメンバーからの意見があった。しかし、当時の日本肩関節研究会は、アジア肩関節学会の活動に関して、信原克哉先生が個人的に行っていることなのでサポートを行わない、という見解を示し、その後、日本肩関節学会へと発展する40年の歴史の中でも資金的にはもちろん、日本肩関節学会の役員会での報告や会員への広報活動も積極的に行うことはなかった。
日本肩関節研究会からの資金的・人的サポートが得られない状況に落ちいった日本のFounding Board Memberは、1993年に「アジア肩関節学会日本クラブ」を立ち上げ、組織的・資金的なサポート体制を作り上げた。この時、アジア肩関節学会のサポートに賛同した日本クラブのメンバーは約100名に及ぶ。
- 表4)Founding Board member
- 図7)伊藤信之会長による長崎での日本肩関節研究会にて、向かって左から信原克哉先生ご夫妻、山本龍二先生、J.J.Wu先生ご夫妻、伊藤信之会長、Kai-Nan An先生
- 図8)アジア肩関節学会設立の会合後の集合写真 前列左からK.M.Chan(Hong Kong) , M.Sakurai(Japan), C.R,Hilmy(Indonesia), K.Nobuhara(Japan), J.J.Wu(Taipei, Taiwan), C.H.Feng(Beijing, China), N.Itoh(Japan) 後列左からV.Rojvanit(Bangkok, Tailand), H.Tsutsui(Japan), V.P.Kumar(Singapore), P.Hales(Perth, Australia), N.Subramanian(Kuala Lumpur), R.Yamamoto(Japan), P.H.Chien(Shanghai, China), G.Y.Huang(Beijing, China), L.M.Abrahan(Manila) , A.A.Riera(Manila)
第1回のアジア肩関節学会学術集会(Academic Congress of The Asian Shoulder Association: ACASA)は1994年に台北で開催され、学術集会会長のJiunn Jer Wuは欧米およびアジア諸国からの多数の専門医達を招聘した。この83演題の学術集会には、日本からの参加者80名を含めた250名が参加し、学問だけでなく親睦を深めることで、アジアにおける肩関節の発展を担う学術集会として、その船出を祝った。(図9)(図10)(図11)(図12)
- 図9)1994年 第1回ACASA 台北(台湾、R.O.C.)
- 図10)信原克哉会長から第1回学術集会会長への記念品贈呈
- 図11)会長招宴でのカラオケ大会
- 図12)会長招宴でのヤングライオンズ
第2回(1996)はPeter Hales会長で、オーストラリアのパースで71演題が集まり、日本からは120名、総参加者数は450名で開催された。(図13)(図14)(図15)(図16)(図17)
- 図13)1996年 第2回ACASA Perth(オーストラリア)
- 図14)会場近くの公園で
- 図15)町中で向かって右から髙岸憲二先生、伊藤信之先生、小川清久先生、筒井廣明
- 図16)懇親会で向かって右から中川照彦先生、福田公孝先生、Stephen Liu(UCA), 筒井廣明、信原岐栄先生、三森甲宇先生、髙岸憲二先生、QY Xue(Beijing Hospital)、小川清久先生
- 図17)懇親会で前列右から山本龍二先生ご夫妻、信原克哉先生、G.Y.Huang(Beijing, China)、信原岐栄先生 後列右から、髙岸憲二先生、QY Xue(Beijing、China)、小川清久先生、筒井廣明、橋本淳先生、山崎雄一郎先生、熊谷純先生
その際にJSES (Journal of Shoulder and Elbow Surgery)の編集主幹のProf. Otto Sneppen からJSESへの参加要請状が届けられ、こうして本会は国際学会の一員として認知された。
この後、1998年3月16日にJSESのBoard of Trusteesがアジア肩関節学会の加入を正式に決定した。そこでアジア肩関節学会はKM Chanを主幹とし、JJ Wu(台湾)、Chehab R Hilmy(インドネシア)、Gong-Yi Huang(中国)、Antonio A Rivera(フィリピン)、Vatanachai Rojvanit(タイ)、VP Kumar(シンガポール)、Yong-Girl Rhee(韓国)によるEditorial boardを選出し、アジアからの投稿が出来るようになった。
第3回(1999)年はChehab Rukni Hilmy会長で、インドネシアのバリ島で開催された。この学術集会の1週間前、反政府ゲリラによってバリ島の街路樹が燃やされる騒ぎがあり、躊躇された参加者も多かった。日本からは90名と少なくなったが、13の国・地域から400名の参加者が集い、49演題の発表を中心に討論が出来た。(図18)(図19)(図20)
- 図18)1999年 第3回ACASA バリ(インドネシア)
- 図19)Board meeting
- 図20)開会式
第4回(2002)はKwang-Jin Rhee会長の下、ソウルで開催され、日本からも120名が参加して400名の参加者で88演題の発表による学術集会だけでなく、交通渋滞の中、ソウル市内での食事会など、参加者の親睦を図ることが出来た。(図21)(図22)(図23)(図24)(図25)
- 図21)2002年 第4回ACASA ソウル(韓国)
- 図22)開会直前の大田大学学長室にてKwang-Jin Rhee,信原克哉先生、Yong-Girl Rhee
- 図23)会長招宴会場
- 図24)会長招宴会場
- 図25)福田公孝先生、筒井廣明、Kwang-Jin Rhee、小川清久先生
第5回(2005)はGong-Yi Huang会長のもと、北京で開催された。156演題と演題数も多く、日本からも110名が、総参加者数も450名と前回の韓国と同じ程度の規模になってきている。(図26)(図27)(図28)(図29)(図30)(図31)
- 図26)2005年 第5回ACASA 北京(中国)
- 図27)信原克哉会長からG.Y.Huang学術集会会長へ記念のメダル贈呈
- 図28)Board Meeting
- 図29)Board Meetingの記念撮影
- 図30)学術集会開会式
- 図31)信原克哉先生の基調講演
第6回(2009)は香港にて、Kai-Ming Chanが会長で開催されたが、多くの学術集会やトレーニングコースが同時に行われたため、102演題の発表があったが参加者は日本から60名、総参加者数も300名に留まった。(図32)(図33)(図34)(図35) この時のBoard meetingで各国のmemberから、日本での開催を要望されたため、了承の返事をして帰国した。
- 図32)2008年 第6回ACASA 香港
- 図33)食事会場でのBoard Meeting
- 図34)食事会場でのBoard Meeting
- 図35)夜間ライトアップ見学の遊覧船の乗船口で
帰国後、信原克哉学術集会会長、筒井廣明事務局長で開催すべく、会合を開いたが、信原克哉先生より、筒井廣明学術集会会長、菅谷啓之事務局長での開催を提案され、ディズニーランド周辺のホテルを会場としての開催で準備を始めた。
この第7回アジア肩関節学会の開催にあたっては、日本肩関節学会の幹事会において、「第7回アジア肩関節学会の開催と進捗状況」としての報告を行った。その際、日本肩関節学会には資金援助は求めなかったが、会員へのメール連絡を行うための手段の提供をも拒まれ、独自に連絡網を作成する必要が生じ、「後援」としての名前を掲載する了承だけを得た。
学術集会の企画に関しては、日本はもちろん、アジアからの参加者にとってもこの学術集会を、友達を作る場として、また、どの国で誰がどんな研究をしているのかがわかる場とするために、すべての演者の顔写真を演題抄録とともに掲載し、無名の若手にとっても将来に繋がる学術集会とすることを目的とした。また、日本肩関節学会が第31回の学術集会より「肩の運動機能研究会」を同時開催していたこともあり、理学療法士による第1回のアジア肩肘理学療法士会(1st Asian Congress of Shoulder & Elbow Therapist: ACSET)を高濱照先生(九州中央リハビリテーション学院 教務部長)を会長として同時開催することとした。
しかしこの年、東日本大震災が3月11日に発生し、福島の原子力発電所からの放射能汚染や、会場を予定していた浦安地域の液状化など、ディズニーランド近郊のホテルでの学術集会開催が、海外からの参加者の不安もあり難しい状況となったため、日程変更は行わず、急遽、会場のみ、沖縄の那覇市のホテルでの開催に変更した。東日本大震災から4か月での開催となったが、海外からは80名の参加と、日本からの270名という多くの先生方の参加・運営の協力のもと、盛会に終わった。
同時開催した第1回アジア肩肘理学療法士学会学術集会も2つの講演と72演題で行われたが、アジアにおいては、まだ理学療法士の業務や研究が認識されていないと思われ、ごく一部の演者以外はすべて日本からの参加者で、今後の発展が期待される。(図36)(図37)(図38)(図39)(表5)
- 図38)Board meeting
- 図39)会長招宴で最後に記念撮影
- 表5)第1回ACASAから第7回までの参加者数リスト
一方、アジアにおける肩関節に関しては、1993年には韓国肩肘学会が、1997年には中国肩関節センターが北京に開設され、同年にはフィリピン肩関節学会が産声をあげるなど、アジア肩関節学会の発足の機運と共に、この学術集会を各国・地域で開催することで、アジアの各国にも肩関節学会設立の機運が高まってきている。また、各学術集会の参加者も表5のごとく、日本以外の国からの参加も多く、この開催方法が各国・地域の肩関節外科への発展にある程度の貢献をしている姿が垣間見える。
アジアの中では特に、1993年に創立された韓国肩肘学会(表6)(図40)は会長クラスの肩関節外科医が日本やヨーロッパ、アメリカなどへ積極的に留学しており、日本との交流にも積極的に参加する姿勢を見せて(図41)、着実に組織の拡大とレベルアップがなされて来ている。その後、日本肩関節学会との間で交換留学制度を設けるに至り(表7)、さらに互いの学術集会への参加及び質疑応答が自由に行われる制度を作り上げ、SECECやASESへの交換留学もこの2つの国から交換留学生を選出し、一緒に訪問するというアジアとしての交換留学制度で行うこととなった。
- 表6)KSESのfounding memberと会長リスト
- 表7)Travelling fellows between JSS and KSES
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図40)KSES創設のころの写真
Eun-Sun MOON(10th)、Kwang-Jin Rhee(4th) ,Kwon-Ick Ha(1st), This photo was provided by prof. Jin-Young PARK
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図41)第50回 KOA(18,October, 2006)にてKSESの会長達が夕食会を設定してくれた。
前列左からSung-Jae Kim(9th), Kwang-Jin Rhee(4th), Hiroaki Tsutsui, Kwon-Ick Ha(1st), Yong-Girl Rhee(13th & 14th) 後列左からKen Yamaguchi, Daisuke,Makiuchi, Tae-Soo Park(15th), Ki-Yong Byun, Jung-Man Kim(6th), Jin-Young Park(18th)
今後は世界的な枠組みの中で、アジア各地域における会員の臨床および研究の場と、会員相互の交流の輪を広げる組織として、また、五大陸の一翼を担った組織として「アジア肩関節学会」が活動していってくれることを心から願う。
最後に、このアジア肩関節学会の創設から20数年間関わらせていただいたことに感謝するとともに、インターナショナルな活動という方向性が出された日本肩関節学会が、国際的な活動の中で、地に足をつけた自らのレベルアップはもちろんのこと、我々が所属しているアジア全体の肩関節の普及や教育などに果たす役割の大きさを再認識し、積極的な活動を行うことで、更なる発展を遂げてほしいと考える。
最後に、陰ながら活動を支えていただいているご夫人達に深謝。(図42)
- 図42)左から信原克哉先生夫人、三笠元彦先生夫人、久津間智充先生夫人、筒井廣明夫人、山本龍二先生夫人、後列左から信原克哉先生、田畑四郎先生夫人