羊ケ丘病院 岡村健司
肩学会名誉会員で札幌医科大学整形外科名誉教授の石井清一先生が2021年4月26日に肺炎のため84歳で永眠されました。石井先生と最後にお会いしたのは2019年12月の羊ヶ丘病院の忘年会でした。その時はお元気でビールを飲まれ談笑され、祝辞もいただきました。最近は体調を崩されて療養中であったと聞いていましたが、突然の訃報で愕然としました。亡くなられて2年以上経過しましたが、あらためて謹んでお悔やみ申し上げます。
石井先生は私が札幌医大整形外科に入局した時の主任教授で、私が学生時代に所属していた空手部の顧問でもありました。そして私にとって肩外科の師匠でした。私が肩関節外科を志したのも研修医の時に石井先生より直接、肩手術の手ほどきを受けたのがきっかけでした。肩外科の研鑽のため整形外科入局5年目に大阪厚生年金病院の米田稔先生のところに行く出発の日にいただいた激励の言葉が今も忘れられません。“大阪は整形外科が進んでいるから肩の関節鏡手術を勉強して、それをぜひ私そして札幌医大整形に教えてください。”この言葉をいただいて武者震いをしたのを今でも覚えています。そして1年3か月後に医局に戻った時に“明日から先生が学んだ肩の外科を大学でやってください”と言われ、関節鏡手術の症例まで準備していただきました。あまりの度量の大きさに尊敬の念を覚えずにはいられませんでした。石井先生のおかげで私も一端の肩の外科医になれました。肩学会幹事を退任するときも私を後継者として推薦していただきました。感謝しかありません。
また石井先生は私どもが羊ケ丘病院を開設した時に名誉院長に就任していただいた恩師であります。今から15年前の羊ヶ丘病院開設前にすでに教授を退官された石井先生に名誉院長を依頼した時の石井先生の言葉を今でも鮮明に覚えています。“名誉院長を引き受けてもよいが条件が3つある。一つ目は名誉院長の期間は病院が軌道に乗るまでの2年間、二つ目は経営には参画しない、三つ目は報酬は一切不要”私はその言葉を聞いて目が点になったことを思い出します。元教授に名誉院長を依頼して無報酬というわけにもいきませんと言うと同席されていた奥様から“石井はそういう人です”と一喝されました。実際、病院が軌道に乗った2年後に退任され、その2年間、時々外来、手術もしていただきましたが報酬は一切受け取っていただけませんでした。もともと札幌医大整形外科教授の時から同門病院で手術されても報酬は辞退されていましたし、講演料は封も切らず整形外科野球部に寄付していただきました。野球部に寄付していただいた総額は数百万円です。石井先生は頭脳明晰な真の教育者で金銭欲、名誉欲は全くなかったと思います。しかし決して堅物ではなく野球、ジョギング、スキーを愛するスポーツマンで、医局員と酒を交わして雑談に興じる頼れる親分でした。
石井先生は整形外科野球部の総監督で、日整会野球大会優勝を目指して行った和歌山合宿や全国の強豪チームとの遠征試合にはよく同行され、日整会野球大会本戦には必ずベンチに入って選手を暖かく見守っていただきました。1996年に初出場、初優勝した日整会野球大会決勝戦(東京ドーム)での石井先生の天高く舞った胴上げが昨日のことのように思い出されます。
石井先生は肩関節外科のほか手の外科、腫瘍、スポーツ整形を専門とされ日本の整形外科の重鎮でありました。整形外科のすべての分野に精通されており医局員の教育には特に情熱を注ぎ献身的でした。学会発表の予行で、地下鉄の終電がなくなっても医局で指導されていたことを思い出します。石井先生の口癖は“本当ですか”と“何が面白いのですか”でした。真理を追究されていたのだと思います。論文の査読にはひときわ厳しく、自信をもって提出した論文が翌日には真っ赤になって返ってきました。しかし石井先生に訂正していただいた論文は論旨がはっきりとしてわかりやすくなりました。
石井先生は札幌医大整形外科主任教授を19年務められ多くの門下生を輩出されました。私はその初期の頃のできの悪い弟子のひとりであったと自覚しています。石井先生の教えのおかげで整形外科医、肩外科医としてこれまで真摯に患者さんと向きあうことができたと思います。これからは石井先生の教えを後輩に継承していくことが私の使命であり、石井先生への恩返しであると考えています。これからも石井先生に一歩でも近づけるように精進してまいりたいと思います。
ご冥福をお祈りいたします。
- 石井清一先生の肖像写真
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石井清一先生執刀の手の手術風景。
助手は薄井正道前院長、成田雪子先生