(文責 丸山 公)
第23回日本肩関節学会会長(1996年10月31日、11月1日埼玉県大宮市ソニックシティー大宮)。
1931年山梨県のご出身で、川崎市幸区に在住された。日本大学医学部卒業。
鳥山貞宜教授の後任として、日本大学医学部整形外科学教室の第4代主任教授(平成4年1月~平成7年10月)を務められた。
一見取り付きにくそうに見えるが、とても細やかな配慮をされる先生で、「佐野やん」の愛称で親しまれていた。教授になられても、朝いちばんで出勤し、医局の鍵を開け、医局員のために自らコーヒーメーカーをセットしたり、メールやネットのない時代に教室員が留学すると、毎月雑誌や新聞を送ってくださった。留学先で日本語の文字に飢えていた私もどんなにか嬉しかったか。
当時厚生省の筋拘縮症研究班の研究で、カニクイザルの筋拘縮症モデルを作られ、治療法の確立を研究されていた。
教室内にキネジオロジー班を立ち上げ、足外科、小児整形、肩関節外科の指導にあたられたが、研究班の分け隔てなく後輩を指導してくださり、他人を束縛せず何でも自由にやらせてくださったので、主任教授時代には医局内に各分野のスペシャリストが育った。反復性脱臼に対し、Boytchev法を早くに取り入れて好んでなさっていた。筋皮神経障害が多いので、私はすぐにBristow-Bankart法に変更させて頂いたが、怒ることもなくお心の広い方だと感じた。
派手なことは好まず、質素で実直で学問肌であった。発表原稿を校閲して頂くと、「日本語になっていない。」と「てにをは」や句読点を直され、原稿を赤インクで真っ赤に校正された。ワープロの無い時代に、夜を徹して最低5回は書き直したのを懐かしく思い出す。投稿論文についても「論文は長ければ良いというものではない。」とよくお叱りを受けた。
趣味でゴルフはしたが、「早打ちマック」の異名でプレーは異常に早く、「佐野やんの前には危ないから絶対に立つな」と先輩に指導されたことがある。スコアにあまり執着しないので、決してうまくはなかった。(多摩CCメンバー) 2001年1月25日膵頭部癌による肝不全にて、入院先の聖マリアンナ医科大学病院で他界された。新川崎駅近くの小高い丘の上にある了源寺に眠る。
- 学会長挨拶