日本肩関節学会50年史

津山直一先生

信原病院・バイオメカニクス研究所
信原克哉

津山先生に初めてお会いしたのは、1976年第3回日本肩関節研究会の幹事の席上である。隣に座られた先生は“僕も神戸の出身”と人懐っこく話しかけてこられた。その後、私の「肩-その機能と臨床」出版にあたって、医学書院に「序文を津山先生にお願いしたい」といったところ、「あの先生は無理」と断られた。そこで直談判することにして東大整形外科医局を訪れ、昼寝をされていた津山先生を起こして無理なお願いをした。持参した大量の手書き原稿・図表をみた先生はしばらく沈黙、“あんた、ようやるなー、わかった”と一言。手土産は米国留学中に求めた派手な色彩の「インデアン酋長の被り物」であった。

先生が日整会会長のとき、教育研修会「肩関節の運動分析」の講師に指名していただいた。後に序文を頂いたお礼に阿佐ヶ谷のお宅を訪ねたことがある。大きな屋敷が建ち並ぶなかを歩いたが、どこにも津山の表札がない。諦めて帰ろうと思ったとき豪邸の横の細い路地を進むと先生のお住まいを見つけた。離れのような造りの家で、玄関のガラスは割れていた。これが敬愛する天下の学者の“おうち”であった。なぜかひどく胸が痛んだことを覚えている(図1)。

当院は幾度か先生の来訪を受けている。なかでも記憶に残るのは英国留学中に翻訳の仕事をもらった辺見さん(在相生)の霊前参拝を果たされたこと、日中友好病院の周天健院長と中国リハ学会の袁福鏞会長を連れて来られて、しばらく預かって欲しいと頼まれたことなどであろうか(図2)。そういえば、肩の日中交流は、津山先生が北京医院の王福権部長を私に紹介した縁で始まっている。1990年に津山先生に依頼され関東から六名、関西から故七川、故広畑、鈴木教授と私の四名で訪中団を結成し、秘書長として北京を訪れたことがある(図3)。先生は中国語で堂々と挨拶をされ団員を驚嘆させた。日整会が認定医制度を設立したとき、副委員長として津山委員長のお手伝いしたのも貴重なご縁の一つである。

津山先生の遺稿抄に「神戸にのこっているものは、大石の善立寺にある祖父母、父の眠る墓だけである。好きな街はーと問われれば神戸と答えることに躊躇しない。そのうち私も神戸に帰り、祖父母、父母とともにそこに永く眠ることになるであろう」とあった。2005年2月5日急逝され、5月8日にホテルオークラで開催された先生のお別れの会のあと、熱暑のお盆に善立寺を訪ねたが献体された先生の遺骨はまだ帰っておられなかった。先生、安らかに。合掌。

  • 津山直一先生(1923‐2005)
  • 図1)津山先生、日中友好病院周院長らと談笑。於 室津港千年茶屋きむら。
  • 図2)整形外科訪中団記念写真。前列:右から七川、広畑、津山先生、筆者。後列右から鈴木、山本先生ら。
  • 図3)WPOA学会での記念写真。右から片岡、Sularto(ジャカルタ大学教授)、Pujalte(比国国立整形外科センター長)、筆者夫人、津山先生。

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