福岡大学筑紫病院
柴田陽三
本学会は1974年に遠藤寿男のお世話により第1回が開催され、1976年、第3回の福岡大学の髙岸直人教授のもとで開催の折りに、事務局が福岡大学に設置されることがきまり、その翌年の1977年雑誌肩関節第1巻第1号が刊行されました(図1)。当時は肩関節研究会という名称でまだ頭の部分に“日本”がついていない事がおわかりと思います。雑誌の巻末に発足当時の幹事のお名前が記載されており(図2)、これら大先輩の方々が強力なリーダーシップを発揮され本邦の肩関節外科の土台を築かれました。アメリカにおけるAmerican Shoulder and Elbow Surgeons(ASES)が1982年の設立, ヨーロッパにおけるSociété Européenne pour la Chirurgie de l'Epaule et du Coude(SECEC)が1987年に発足され、1974年発足の日本肩関節学会は世界でもっとも早く設立された肩関節外科に関する学会といえます。特にSECEC は、Dr PatteとDr Gschwendが、日本で開催された第3回国際肩関節学会に参加したことで、その設置が決断されたとSECECのHPに掲載されています。
- 図1)The 13th Annual Meeting of WPOA, Jakarta, Indonesia 1992, 11, 5
- 図2)肩関節研究会発足当時の幹事名簿
会員数は記録が始まった1978年、280名からスタートし、1990年には1000名を越え、40年目の2013年6月30日の時点で1639名を擁する大きな学会と発展致しました。第1回の研究会での発表演題数は11題でしたが、現在400題前後に、雑誌肩関節の第1巻(1976年開催;髙岸直人会長)の掲載論文数は35題であったものが、第38巻(2013年開催;黒川正夫会長)には194題もの論文が掲載され、増加の一途をたどってまいりました(図3)。
- 図3)会員数、演題数、雑誌肩関節掲載論文数
雑誌肩関節の表紙や、学会のホームページ上に掲載されている本学会のシンボルマールがはじめて世にでたのは、1985年、北海道大学の松野教授開催の第12回肩関節研究会の抄録号です(図4)。本シンボルマークは福田公孝現監事がデザインなさったもので、翌1986年の第13回の幹事会で正式に日本肩関節研究会のシンボルマークとして承認がなされました(図5)。またこの時の幹事会議事録をみると本研究会で作成した“肩関節機能評価法”が日整会の承認を受けて、“日本整形外科学会肩関節治療成績判定基準(JOA score)”として日整会誌に掲載された記念すべき年でもあります。実はこの年は第3回国際肩関節学会(International Conference of Shoulder Surgery)と第13回日本肩関節学会がcombined meetingとして開催された年でもありました。
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図4)日本肩関節学会のシンボルマーク
当時は肩関節研究会の名称で、第12回 北海道大学の松野会長の研究会ではじめて使用された。
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図5)第13回肩関節研究会議事録
肩関節学会の新ボールマークの承認とJOA scoreの公表
1987年、第14回研究会(三笠元彦会長)のおり、第3回国際肩関節学会の余剰金を基金として髙岸直人賞が創設されました(図6)。若手研究者の奨励賞として発足し、多くの受賞者が現在の日本肩関節学会の理事や代議員に就任し、本邦の肩関節外科の指導者として活躍をしています(歴代受賞者名は日本肩関節学会ホームページを参照)。また、この年、8月19日に本研究会が日本学術会議の登録研究団体として承認を受けた年でもあります。この年の学会ではじめて肩関節文献集の第1版(当初はA4版の印刷物)が学会参加者に配布されました。本文献集は三笠元彦先生がお一人で作成されており、第1版は邦文論文のみの収載でしたが、その後、英語論文を収載した冊子が出版され、現在ではCD-ROM版として学会参加者に配布されています。会員の皆様は学会役員の共同作業で作成しているものと思われているかもしれませんが、現在も三笠元彦先生お一人が、ライフワークとして作成なさってあり、そのご尽力に心より敬意を表するものであります。
- 図6)高岸直人賞発足・日本学術会議登録・肩関節文献集
1989年、第16回(松崎昭夫会長)のおり、学会の発足にご尽力頂いた幹事の功績に報いるために名誉会員制度が発足致しました。
1990年、第17回(加藤文雄会長)のおり、肩関節研究会の会員数、論文数の増加による会の拡大にともない、名称が日本肩関節学会に変更されました。
1991年、第18回(水野耕作会長)のおり、Colombia大学のProfessor NeerよりAmerican Shoulder and Elbow Surgeryでofficial journal を創刊するので日本への参加協力の要請がありました。そこで日本肩関節学会内に英文誌の査読業務を行うため国際委員会を発足させ、雑誌肩関節の編集委員がその任に当たる事が決められました。この英文誌がJournal of Shoulder and Elbow Surgeryであり、現在、肩・肘関節外科に関するトップジャーナルとなっていることは会員の皆様がよくご存じの通りであります。
1993年、第20回(伊藤信之会長)のおり、その翌年の1994年から日本肩関節学会とヨーロッパ肩肘学会との間で隔年に行き来する交換留学生制度が発足することとなりました。第1回留学生として井樋栄二(東北大学;初代日本肩関節学会理事長)先生が、第2回として柴田陽三(福岡大学;現副理事長)が選抜され渡航しております。現在まで15名の会員が交換留学生に選ばれましたが、そのうち10名が現日本肩関節学会の代議員や理事に就任しております。
その後、2006年、第33回(伊藤博元会長)のおり韓国のProf Kwang Jin Rheeより交換留学生の申し出があり、韓国からProf Kwang Jin RheeとProf Yong Girl Rheeが来日、翌年には日本から鈴木一秀先生(昭和大学藤が丘リハビリテーション病院)、水野直子先生(行岡病院)が韓国に派遣され、これまでに合計10名の先生が派遣されています(詳細は学会HP参照)。またこの2006年に雑誌肩関節がこれまでのB5版からA4版化され、同時に電子ジャーナル化される事が決定されました。それから2013年までは雑誌肩関節は紙媒体の印刷物と電子ジャーナルが並行して出版されていましたが、それ以降は紙媒体の雑誌の発刊は廃止され電子ジャーナルのみの発刊となっています。
さて、こうした日本肩関節学会における業務遂行のために、1976年から初代の事務局担当幹事として松崎昭夫名誉会員(1976~1984年)、二代目として竹下満名誉会員(1985~1991年)、そして三代目として私、柴田陽三(1992~2009年)が任じさせて頂きました。その後、私の福岡大学筑紫病院への移動に伴い、4代目として伊崎輝昌先生がその任にあずかりました。2010年10月から群馬大学の髙岸憲二教授が事務局業務を引き受けて下さる事となり、小林勉先生、山本敦史先生が事務局長として学会事務のお世話を頂きました。
1992年に私が事務局を担当した時には4つの委員会(雑誌肩関節編集委員会、国際委員会、JOA score再検討委員会、髙岸直人賞決定委員会)しかなかったものが、徐々に海外の学会連携を含めて迅速に決済しなければならない事案業務が増加し、2015年5月現在、14の委員会と1つのWG(雑誌肩関節編集委員会、QOL評価表検討委員会、国際委員会、髙岸直人賞決定委員会、社会保険委員会、教育研修委員会、学術委員会、広報委員会、財務委員会、倫理委員会、定款等運用委員会、リバース型人工肩関節運用委員会、40年史編纂委員会、役員選挙管理委員会、学会のあり方WG)が活発に活動を行っています。このような劇的な事務量の増加のため、日本肩関節学会の社団法人化と事務局の外部委託は必然の流れでありました。2012年(第39回;中川照彦会長)のおり、社団法人化を念頭に、一旦任意団体のまま学会制度を理事・評議員制度をスタートさせ、第一次理事会が発足しました。そして、2014年8月1日付けで日本肩関節学会は懸案であった一般社団法人となり、2014年(第41回森澤佳三会長)のおりに、第二次理事会が発足し、2015年2月1日をもちまして事務局業務の外部委託を行う事となりました。
先人のご功績によって発足した日本肩関節学会は世界で最も歴史の古い学会として活動をしてまいりましたが、一般社団法人として法人格を得た事から、より大きな社会的責任を全うし、本邦の肩関節外科学の一層の発展に寄与していくものと確信を致しております。