Buongiorno tutti! 肩学会の皆様、こんにちは。札幌医科大学整形外科の水島衣美と申します。2023年4月よりイタリア、ボローニャにあるIstituto Ortopedico RizzoliのBST Labに留学しております。こちらは高井病院の楠崎克之先生と秋田大学の土江博之先生を通してご紹介いただきました。Prof. Nicola Baldiniのもと酸性環境下で変化した骨肉腫の代謝、特に脂質代謝などの研究が盛んに行われており、私は脂質代謝の代謝産物と血管新生に関しての研究をしております。日本肩関節学会ニュースレターで骨肉腫の基礎研究という違う分野での留学報告をさせていただくのは大変恐縮なのですが、せっかくのこのような機会を頂きましたので、留学に至った経緯やイタリアでの生活をお伝えできればと思います。
私は札幌医大出身で学生時代は岡村健司先生、廣瀬聰明先生にお世話になりました。2010年に札幌医大整形外科に入局。大学、地方病院での勤務を経て、入局5年目に肩関節外科医を目指すことに決めました。しかし志した翌年、なんとなく流れにのって大学院入学。研究は同大学の病理学第一講座にお世話になり、そこは腫瘍免疫を主とする研究室でした。私自身も骨肉腫の細胞株を用いた研究を行うもなかなか結果は出ず、3年目のぎりぎりのところで卒業にこぎつけました。その後は、堀籠圭子先生の下で1年間、肩関節鏡手術を中心に経験を積んだ後、函館で肩関節疾患を中心に診療に携わり、昨年より留学という経緯になります。
海外留学は中学時代に家庭科の先生がお話しして下さったイギリス留学の話を聞いた時からずっと憧れがあり、いつか留学したいと思っていました。しかし流れで大学院に行っているぐらいですから、実現まではほど遠く、病院勤務をするうち留学へのモチベーションが下がったり、そのうちコロナになったりと先延ばしになっていました。
そんな中、秋田大学とのミーティングで土江先生からイタリア留学の話を聞く機会がありました(秋田大学とは共同研究等でお世話になっています)。楽しそうに話されていたのがとても印象的で、また、とてもワイルドになって帰ってこられたように見えました。今にして思えば、それは留学の苦労話で、ワイルドさも髭による演出が大きかったと思いますが、留学するならヨーロッパがいいと長年思っていたのでイタリア留学を考えるようになりました。最終的にはコロナ明けで研究していた時期から数年経ての留学となり、今更大丈夫だろうかと不安が大きかったのも事実ですが、諸先輩に相談させていただき、チャンスがあるなら行ってみようと決断に至りました。
イタリア留学前の最初の難関はビザでした。ここ最近、留学された先生の中で研究用のビザが取れた人はおられず、語学留学用のビザを取得されていました。実際、語学学校に授業料を払い、授業をサボって病院に行くという生活です。取得が難しい理由は、イタリアの施設側でやってもらう手順が抜けていることに由来するのですが、イタリアでは各システムが複雑で、現地でも誰も正確に把握していないので、日本でその情報を得ることは困難となります。また原因がわかった後でも、急にラボの担当者と連絡が取れなくなるといったことがあります。結局は私も語学留学用のビザを取得し渡航することとなりました。語学学校の費用はかかりましたが、せっかくなら同僚とイタリア語で会話できるようになりたいというのもあったので好都合でした。このビザ取得までの一連の出来事はイタリアでは正常の状態で、いろんなことが未解決のまま前に進む、そして最後にはなんとかなるというのがイタリアです。
イタリアでの日々の生活
先月までは、毎日語学学校にも行っていました。授業は90分2コマで半日あるため、半日学校に行き、半日ラボに行き、夜は宿題をやる(あるいは力尽きる)といった生活でした。イタリア語はほぼゼロの状態で来てしまったので、宿題をやらないと翌日の授業に本当についていけず、授業で何をやっているのか全く分からなかった週もありました。授業が進み、レベルがあがってくると、政治、アート、教育など様々なテーマでディスカッションする機会がありました。各国から来ている生徒たちの話を聞いたり、自分の意見を述べたりという中で、イタリアのみならず色々な国の文化を知ることができ良かったです。日本での生活では、病院外で様々な人と話すということはできていなかったので、本当にいい機会だったと思っています。
一方、ラボは教授をはじめとするスタッフから、卒業論文を目標とする学生までおり、年代は様々ですが全員イタリア人です(写真1)。ラボ内の会話は基本的にはイタリア語になりますが、私とは英語とイタリア語の両方でコミュニケーションをとる形になります。
近年、イタリアでも“Cervello in fuga”(頭脳流出、直訳で脳は逃走中)と呼ばれる現象が問題になっています。優秀な人材が、より良い環境を求めて他国に流出してしまう現象で、イタリアからの流出先としてはドイツ、イギリス等が代表的です。私がいた1年間でも、こちらのラボからもドイツ、オーストリアへと実際に旅立っていきました。対策として、若手研究者たちの給与の引き上げがなされたのですが、その結果、若手と経験者の所得の逆転現象が起き、経験ある人々はまた別のストレスを抱えることになり・・・、というように何かと突っ込みどころ満載なのがイタリアです。
その他、イタリア病院事情としては、一般的なことしかお伝えできません。Istituto Ortopedico Rizzoliはボローニャ大学に関連した歴史のある整形外科施設で、一般整形外科に加え、肉腫の診療に関してもイタリア国内のみならず有名です(写真2)。残念ながらイタリアは南北での経済格差が大きく、それは医療の質においても同様ですが、ボローニャはルネサンス頃にローマ教皇領だったこともあり歴史的にも裕福な地域であり、それらが医療の充実に貢献したのではと愚考しております。
さて、ボローニャは日本では比較的情報が少ないかと思いますが、ボローニャの街を説明する3つの言葉(la dotta、la grassa、la rossa)がありますので、こちらに沿ってご紹介いたします。La dotta(学問の街)は、諸説あるものの、ボローニャ大学はヨーロッパ最古の総合大学とされ、現在も10万人近くの学生が在籍しています。かつてはダンテ(イタリア語の父と呼ばれる)、コペルニクス(地動説を提唱)が在籍していました。
La grassa(食の街)は、かねてから美食の街として知られ、多くの観光客が訪れます。いわゆるボロネーゼは、本来はTagilatelle al ragu(タリアテッレアルラグー)と呼ばれ、太麺のパスタTagilatelleに肉raguのソースを絡めたものです(写真3)。他にもラザーニャ、トルッテローニ、トルッテリーニなどパスタだけでも数種類(写真4、5)、そしてプロシュートを始めとする生ハム、パルミッジャーノ・レッジャーノ(写真6)など美味しいものには事欠きません。
La rossa(赤い街)は中世の街並みが残り、赤いレンガで作られた建物によって赤く見えることによります。
このようにボローニャは学生や観光客が多く賑やかなので、夜の外出も危険なことはほぼありません。とはいえ、もちろん最低限の注意は必要で、語学学校の日本人が財布を盗まれるという事件もありました。また余談ですが、私自身もアイルランドでパスポートを紛失しました。ダブリンの学会に来ていた先輩・後輩に会いに行き、久々に会えた嬉しさで浮かれていた間に盗まれたと思われます(写真7)。当たり前ですが、パスポートがないと他国への移動は不可能となるため、再発行されるまでダブリン滞在となってしまいました。アイルランドでの冒険についてもう少し語りたいところですが、パスポートを失ってもダブリンは魅力的でした、とまとめさせていただきたいと思います。
海外留学を考えておられる方へ
留学前は、このタイミングで留学し覚悟のないまま行って大丈夫だろうかと、かなり迷いがありました(その際、相談に乗っていただいた先生には感謝してもしきれません)。現在も何かをアドバイスできる状態では決してありませんが、ただ言えることは、留学に興味があるなら行ってみるべきだと思います。日本を出てみないとわからないことやそこでしか出会えない人はたくさんいるので、飛び出してみるべきです。上手くいかなかったとしても、貯金が減ったり、1年経ってもそんなに喋れないなとか思ったりするだけで、死ぬわけではありません。自分の目で直接みて、世界の広さや美しさを知ることは大事なことだと思います。